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東京地方裁判所 平成5年(ワ)10497号 判決

原告

服部行男

右訴訟代理人弁護士

鈴木宏明

被告

日商岩井株式会社

右代表者代表取締役

西尾哲

右訴訟代理人弁護士

宮本光雄

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、二五二〇万円及びこれに対する平成五年六月一八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が、被告を退職するにあたり、被告に対し、退職割増金の支払いを求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告は、昭和三九年四月、被告に入社し、砂糖部海外課、食品水産部食品課、水産部水産第二課、食品本部企画室等で勤務し、昭和六二年一〇月から東鳩インターナショナルに出向し、出向を解かれた後、平成三年一一月一日から被告の東京支店に人事部付で勤務していたが、平成四年四月一七日、被告を退職した。原告は、退職当時、勤続二八年で、五二歳、管理職第五級であった。

2  原告が、退職した当時、被告には、定年前に退職する従業員に対し、一定の要件の下に退職割増金を支払う制度が実施されていて、同制度について定めた「早期退職優遇制度」と題する内規(以下「本件内規」という)が存在し、本件内規二条は、同制度の適用対象者につき、次のとおり定めていた(原文は横書き)。

第二条対象者

(1) 本制度の対象者は、勤続一五年以上の社員で、関係会社への転籍者は満五三才以上、関係会社外への転籍者及び自己開発による退職者は満五〇才以上の者で、満六〇才以前に退職し、かつ、下記のいずれかに該当するものとする。

なお、原則として管理職を対象とする。

イ 会社斡旋により関係会社へ転籍するもの。

ロ 会社斡旋により関係会社外へ転籍するもの。

ハ 自己開発により転籍するものあるいはこれに準じるもので、人事本部長が認めたもの。

(2) ヘッドハンティングにより転職する者、及び会社業務と競合関係にある会社へ転職する者に対しては本制度は適用しない。

3  被告は、毎年数回開催するライフプランセミナーにおいて、従業員に対し、早期退職優遇制度の内容を説明してきており、平成三年一一月三〇日開催のライフプランセミナーにおいても、右説明を行い、原告はこれに参加した。

4  原告は、本件内規二条一項ハに規定する者に該当したが、原告の退職に関し、右ハに定める人事本部長の承認は行われていない。

二  争点

本件の争点は、

原告の退職時における原、被告間の雇用契約において、本件内規による前記「早期退職優遇制度」を適用することが契約内容となっていたか、

仮に契約内容になっていたとした場合、原告は、本件内規所定の要件を具備していたか、

にある。

1  原告の主張

(一) 「早期退職優遇制度」の適用が雇用契約の内容となっていたかについて

被告は、毎年被告が開催するライフプランセミナーにおいて、従業員に対し、早期退職優遇制度の内容を説明していたが、これは、参加した従業員に対する雇用契約の内容変更の申入れであるから、これに応じた従業員との間において、「早期退職優遇制度」の適用が雇用契約の内容となるものである。これを原告について言えば、被告は、平成三年一一月三〇日開催のライフプランセミナーにおいて、原告を含む被告従業員に対し、本件内規に基づき、関係会社以外に転出あるいは自己開発で何か事業をするということで退職する者には、退職金に加えて定年六〇歳まで残っている月数(但し、八四ヶ月を上限とする)に月額三〇万円をかけた額の割増金を支払う旨説明して、その旨の雇用契約内容の変更を申し入れ、原告は、平成三年一一月一五日、森本人事部長から退職勧奨を受けた際、早期退職を受け入れる意向を表明して右の申し入れに応じ、自分で新たに事業をするとして、定年までに八四ヶ月以上残した状態で、平成四年四月一七日に被告を退職したものである。したがって、本件内規は単なる内規に止まるものではなく、原、被告間の雇用契約の内容となっていた。

(二) 原告が本件内規所定の要件を具備していたかについて

早期退職優遇制度は、定年前に退職する者に対し割増金を支払う制度で、定年前における退職勧奨制度である。本件内規二条が、自己開発により転籍する者あるいはこれに準ずる者につき、人事本部長の承認を要するとした趣旨は、ある定年前退職者について本件内規二条二項の除外事由の存在する場合や、同項から類推できる事由(例えば、商権を持ち出して独立するとか、会社と競合関係にある会社へ転出するとかいう場合のように、会社に損失を与えるようなケース)が存在する場合に、その者に対する支給を排除するところにある。したがって、人事本部長は、同項の除外事由等が存在する場合には承認しないことができるが、そういった事情が存在しないのに承認しないというような恣意的な取り扱いは許されない。原告は、本件内規所定の勤続年数、退職時年齢の要件を満たしており、同条二項及びこれから類推できる除外事由を有しなかった。よって、原告の事例においては、人事本部長は承認を拒むことはできないのであり、その欠如は被告会社内の手続的瑕疵にすぎないから、原告は本件内規所定の要件を具備していたと言うべきである。

2  被告の主張

(一) 「早期退職優遇制度」の適用が雇用契約の内容となっていたかについて

被告は、原告が、東鳩インターナショナルに出向中であった平成三年五月頃、退職日をブランクとする退職願を持参して割増金の支給を求めたのに対し、支給できない旨伝えて断っており、また、平成三年一一月一五日、原告から退職割増金が支給されるかどうかについて質問を受けたのに対し、人事部長が、支給されない旨回答した。さらに、平成三年一一月三〇日開催のライフプランセミナーにおいては、原告が、過去において、被告に多大な損害を与えてきた経過を十分承知の上で、人事相談室長の坂部から、過去に会社に損害を与えた場合には退職割増金を支給しない旨を原告らに対して明確に説明している。このように被告は、原告に対し、退職割増金が支給されないことを繰り返し伝えているのであって、平成三年一一月三〇日開催のライフプランセミナーを含め、原告に対し、本件内規による「早期退職優遇制度」を雇用契約の内容とする旨の変更申込みをしたことはない。

(二) 原告が本件内規所定の要件を具備していたかについて

被告における早期退職優遇制度は、単に人員を削減する目的で定年前の早期退職を勧奨するために設けられた制度ではなく、長年被告に貢献してきた管理職が、再就職という新しい人生へのスタートを選ぶ場合に、被告が退職割増金を支払ってこれを経済的に支援する趣旨で、被告におけるポスト不足や役職定年制度等との関連において設けられたものであって、昭和五六年に制定された「定年前退職者の取扱い内規」と本質を同じくする。同内規は、昭和五九年の改正で、退職割増金適用対象者を「会社の斡旋で転職する者及び自己開発による転職者で人事総務本部長が認めた者」と定めていたが、ここで「人事総務本部長が認めた者」という条件を付けたのは、自ら再就職先を探して退職する場合に、被告に多大の迷惑をかけて退職するなど、援助に値しない場合も考えられるので、人事総務本部長が個々に制度の趣旨に沿った退職であるかどうかを判断する必要があったからである。本件内規二条一項ハが「自己開発により転職するものあるいはこれに準ずるもの」について人事本部長の承認を条件としている趣旨もこれと同じであり、本件内規二条二項は、人事本部長が承認しない場合の典型的な例を明記することにより、自己開発やこれに準じて退職する者すべてが適用対象者になるわけではないことを明らかにし(この場合は人事本部長の承認の余地はない)、同時にハの場合は、人事本部長の承認が要件であることの注意を喚起するために定められたものである。仮に、原告の主張するように、本件内規二条二項に該当しない限り人事本部長は承認を与えなければならないとするときは、それとは別に同条一項の人事本部長の承認を定めた理由が失われることになり、不都合である。

原告は、人事本部長の承認を得ていないので、本件内規二条一項ハに該当せず、また同条同項イ、ロのいずれにも当たらないのであるから、本件内規が定める対象者に当たらず、その適用はない。

なお、早期退職優遇制度は、退職金とは全く別個独立の制度であり、退職金を補完するものではないし、両者が一体となって初めて退職金としての実体を有するに至るというものでもない。被告においては、別に退職金規程等が設けられており、世間相場からして十分な額の退職金が支払われているので、このような制度を設けても、従業員に不利益を課すことにはならない。原告に対しても、既に、勤続年数に照らし社会通念上妥当な額である二三七四万七三〇〇円が支払われている。したがって、本件内規は有効であるし、本件不承認が裁量権の濫用となることもない。

第三当裁判所の判断

一  本件においては、(証拠略)、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨に前記争いのない事実を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

1  被告は、昭和四三年に旧日商と旧岩井産業が合併した会社であるが、合併以前の高度経済成長時代に両社で社員を大量に採用したことや、社会的要請による定年延長制導入により管理職が急増したことから、社内において、管理職のポスト不足等が深刻な問題となった。被告は、役職定年制度(課長は満五〇歳で、部長は満五五歳で強制的にポストを外される制度)を制定することにより、管理職がポストに就ける機会を広げたが、他方で、ポストから外された管理職の処遇問題が生じることとなり、これに対応するため、昭和五六年に、定年前に会社の斡旋により転職する管理職に対して退職割増金を支給することを内容とした「定年前退職者の取扱い内規」を制定した。同内規の制定趣旨は、増加する管理職を削減するという点もあったが、主として、長年被告に貢献してきた高齢者管理職の新しい人生へのスタートを支援すること、すなわち、管理職の多くは、役職定年後だけでなく、会社の定年後も働けるうちは働きたいと希望しているのに、被告はこれに応えることができない状況にある上、再就職する場合には、できるだけ若いときの方が雇用条件が良く、幅広く仕事を見つけることができることから、高齢の管理職にできるだけ早い時期から第二の人生設計を考えてもらい、新しい人生を開始しやすくするために金銭的な支援を行うという点に置かれていた。本件内規は、昭和六二年に右「定年前退職者の取扱い内規」を改定して制定されたもので、基本的な制度目的は、右内規と全く同一である。

2  右の被告の内規による退職割増金支給の適用対象者について、「定年前退職者の取扱い内規」は、昭和五六年の段階では、会社斡旋により転籍する者に限定していたが、昭和五九年に、右の他「自己開発による転職者で人事総務本部長(後の人事本部長に相当する)が認めた者」にも拡張した。ここで、人事総務本部長が認めた者という限定を付したのは、単なる退職勧奨ではないという右1記載の制度趣旨に照らして、被告に多大の迷惑をかけて退職する場合等、援助に値しないケースを排除するため、人事総務本部長が制度の趣旨に沿ったものであるかどうかを個々に判断する必要があるからであった。さらにその後も改定を経て、平成三年一月一日に本件内規が定められ、適用対象者が本件内規二条のとおりと定められたが、「自己開発により転籍するものあるいはこれに準じるもの」について、人事本部長が認めたものという限定が付された趣旨は、右と同一である。また、本件内規二条二項で、「ヘッドハンティングにより転籍するものおよび会社業務と競合関係にある会社へ転籍するものに対しては本制度を適用しない」と定めた趣旨は、定年前に退職すれば無条件でこの制度の適用が受けられるものと誤解している管理職が存在したため、人事本部長が承認しない場合の典型的な例を明示することで、「自己開発により転籍するものあるいはこれに準じるもの」については人事本部長の承認が条件となるということについての注意を喚起する点にあった。

3  原告は、昭和三九年四月被告に入社し、食品水産部食品課、水産部水産第二課、食品本部企画室等で勤務した後、昭和六二年一〇月から東鳩インターナショナルに出向したが、出向中、数の子や墓石取引に関連して、不当・不正な取引の存在が疑われるようなトラブルを起こし、これにより東鳩インターナショナルや被告が多額の損害を負うに至ったことがあった。これにより、原告は、被告から問題視されるようになり、未だ出向中であった平成三年中ごろから、懲戒処分に付するべきかどうかが被告において検討され始め、原告自身も懲戒に関する事情聴取を受けた。また、出向を解かれ、被告東京支店人事部付となった平成三年一一月一日以後は仕事が与えられなくなり、さらに、平成三年五月ころまで、基本給二五万円余り、能率給が三二万円前後、職位給七万円という賃金を受給していたのが、平成三年七月以降、能率給が二五万円程度に下がり、平成三年一一月以降は、職位給七万円が削られるようになった。

4  原告は、右トラブル発生後、自ら事業を始めようと考え、出向中であった平成三年五月、退職願を持参して被告を訪れ、退職割増金の支給の有無について尋ねたが、回答は、原告には退職割増金が支給されないというものであった。また、被告に復帰した後の平成三年一一月一五日、人事本部長の森本に対し、原告の今後の進退について相談すると共に、退職割増金の支給の有無について質問した際、同人から、原告については、退職するとしても退職割増金は支給されない旨及び給料や待遇が今後さらに悪化していく旨告げられた。

5  平成三年一一月三〇日開催のライフプランセミナーの席上、被告の担当者は、原告を含む参加者に対し、自己開発で、何か自分で事業をするということで退職する従業員が早期退職優遇制度の適用を受けるためには、人事担当役員補佐(従来の人事本部長に相当する)の承認を要すること、定年前に辞める従業員であれば誰でも自動的に同制度が適用されるものではないこと、会社に損失を与えるようなケースについては、同制度の適用がないこと等を述べて、早期退職優遇制度適用のための条件や、適用が否定される事例についての説明を行った。なお、同ライフプランセミナーの参加者は、本件内規適用対象者のみに限定されていたわけではない。

6  被告においては、従来、自己開発により退職する者で早期退職優遇制度の適用を希望する者については、当該従業員が被告に対して書面でその旨の申請を行い、被告においてそれを承認する旨の決裁文書を作成する手続きが採られていたが、原告については、そのような申請・決裁が行われていない。

7  被告においては、本件内規に基づく割増金とは別に退職金規程等が設けられており、原告に対しても、既に二三七四万七三〇〇円の退職金が支払われた。

二  以上を前提に検討する。本件内規による退職割増金支払制度(早期退職優遇制度)は、その制定趣旨からすれば、それが本来の退職金の額等に照らして実質的に就業規則の内容をなす退職金そのものである等の特段の事情のない限り、内規を定めたからといって、それが当然に雇用契約の内容になるものではないと解すべきところ、前記認定の被告の退職金規程により支払われる退職金の額は、世間相場や勤務年数等からして相当な金額であると認められ、他に右特段の事情の存在は窺われない。また、原告が参加した前記ライフプランセミナーにおける被告側の説明内容等に照らすと、これが原告主張のように個々の従業員に対する雇用契約の内容変更の申込みになるとは到底解することはできないばかりか、特に被告会社において原告が被告に多額の損害を発生させたこと(これは、本件内規による人事本部長の審査の際、不承認になる蓋然性の高い事情である)を理由とする懲戒問題が生じていて、懲戒問題の存在は原告自身も知っており、かつ、右セミナー前に被告側から原告に退職割増金が支払われない旨の告知がなされていたとの前記認定によれば、少なくとも原、被告間においては、右セミナーにおける説明が雇用契約の内容変更の申込みであるとする余地はない。更に、本件では、他の時点で右雇用契約の内容が変更されたと認めるに足りる証拠はない。

三  よって、その余の点について判断するまでもなく、本訴請求は理由がない。

(裁判官 合田智子)

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